LOGIN車へ乗り込んでからも、右手には帝人さんのぬくもりが残っていた。
ほんの数分、車まで手をつないだだけだ。
恋人同士なら特別でもないことなのだろう。けれど私たちは恋人ではなく、今夜が初めての仕事ではない外出だった。
隣に座る帝人さんも、いつもより静かだった。
「何か話さないんですか?」
「考えている」
「何をですか?」
「今日、お前が俺について何を知ったのか」
どうやら夕食を、きちんと成果の出る時間にしたいらしい。
「プリンが好きです」
「ほかには」
「休日も仕事をしていること。趣味がないこと。私に嫌われるのが怖いこと」
「最後は言わなくていい」
「帝人さんが自分で言ったんですよ」
「忘れろ」
「俺の言葉を忘れないとおっしゃっていた方が、私には忘れろと言うんですか?」
「都合の悪いことは別だ」
「勝手ですね」
車内の薄暗さに
土曜日の午後。 私は帝人さんと一緒に、皇家の本邸へ来ていた。 仕事ではない。 帝人さんのお母様から、昼食に誘われたのだ。「どうして私まで呼ばれたんでしょう」 車を降りながら聞くと、帝人さんは当然のように答えた。「母が小春に会いたいと言ったからだ」「それは聞きましたけど」「なら理由はそれだろう」「帝人さん、本当に疑問に思わないんですね」「小春に会いたいのは普通だ」「普通なんですか?」「ああ」 そこまで迷いなく言われると、逆に何も返せない。 最近。 こういう何気ない言葉が困る。「小春?」「なんでもありません」「またか」「今日は休日なので追及禁止です」「そんな決まりはない」「今作りました」 帝人さんが納得していない顔をしたところで、玄関の扉が開いた。「小春さん、いらっしゃい」 お母様が笑顔で迎えてくれる。「お招きいただいてありがとうございます」「そんなにかしこまらなくていいのよ。帝人だけだと面白くないから、小春さんも来てくれて嬉しいわ」「母上」「あら、本当のことでしょう?」「俺がいて面白くないとはどういう意味だ」「あなた、自分から面白い話をする?」「必要な話はする」「ほら」 私は思わず笑ってしまった。「小春まで笑うな」「すみません」「謝りながら笑っているぞ」 いつものやり取り。 そのはずなのに。 お母様が私たちを交互に見て、少しだけ目を細めた。「……あら?」「どうしました?」「いいえ」 笑顔のまま首を振る。「何でもないわ」 なんだろう。 少し
東央ソリューションズの正式提案は、予定どおり翌週に行われた。 会議室には、帝人さんと私。 皇グループ側の担当役員と情報システム部。 そして東央ソリューションズから相馬さんを含めて四人。 席につく前に、相馬さんと目が合った。「先日はありがとうございました」「こちらこそ」「本日は、正式な資料をお持ちしました」「はい」 少しだけ苦笑している。 机の上に置かれた資料は、前に私だけが見せられたものとは明らかに違った。 導入費用。 保守費用。 既存システムからの移行期間。 必要になる社内人員。 導入後の削減見込み。 想定されるリスク。 全部入っている。「今回は同じ資料だな」 帝人さんが言った。 相馬さんの表情が一瞬固まる。「……倉橋さんからお聞きになったんですね」「ああ」 余計な説明はしない。「では始めろ」 そこからは、いつもの帝人さんだった。「導入初年度の削減額が大きすぎる。移行期間中の二重運用コストをどこへ入れた」「こちらです」「三か月で終了する前提か」「標準ケースでは」「標準ではなく、遅延ケースも出せ。移行が半年かかった場合、回収期間が何年延びる」「試算しております」「なら最初から並べろ。うまくいった場合だけ見せても判断材料にならない」 相馬さんが資料を切り替える。 数字だけを見れば、提案そのものは悪くない。 むしろ、検討する価値はありそうだった。 でも私は、別のところが気になった。「この利用者アンケート、前に見せてもらったものと少し違いますよね?」 相馬さんがこちらを見る。「はい。今回は全体集計を掲載しています」「前は肯定的な意見がほ
「まず、相馬さんが持ってきたのは正式な提案資料じゃありませんでした」 私は帝人さんの前に座り、最初から説明した。「私向けに整理した資料で、利用者の声とか、現場負担が減ったとか、そういう内容が中心です」「費用は」「入ってません」「移行コスト」「それも」「保守費用」「ありません」 帝人さんの表情が少しずつ険しくなる。「で?」「私が良いと思えば、帝人さんに何か言うかもしれないと思ってたみたいです」「……そうか」 静かだ。 こういう時の方が怖い。「でも、ちゃんと断りましたからね」「何を」「そういう資料だけ見せられても判断できませんって。帝人さんに出す正式資料と同じものをくださいって言いました」「それで?」「分かったって」「小春」「はい」「なぜ先にそれを言わない」「何をです?」「小春が自分で処理したことだ」「説明の途中だったからです」 帝人さんは一度目を閉じた。「帝人さん」「怒っている」「分かります」「小春にではない」「それも分かってます」「ならいい」 よくない。 顔が全然よくない。「でも、相馬さんを呼びつけたりしないでくださいね」「なぜだ」「私が断ったからです」「小春が断れたかどうかは関係ない」 やっぱり。「この前も同じこと言ってましたよね」「ああ」 帝人さんは机の上へ指を置いた。「小春が対応できなかったから腹を立てているんじゃない。小春を俺への経路として扱ったことが気に入らない」「……はい」「しかも今回は
「倉橋さん向けに整理した資料ではあります」 相馬さんは慎重に答えた。「私が気にしそうなところだけを?」「そういう言い方をされると少し違います」「じゃあ、費用も見せてください」「それは正式提案の際に――」「移行リスクも。既存システムとの比較も。導入後に想定される問題も全部です」 私は閉じた資料へ手を置いた。「良いところだけ見せられても、私は判断できません」「判断をお願いしているわけではありません」「でも、私が帝人さんに何か言うことは期待してますよね」 相馬さんはしばらく黙っていた。 やがて、小さく息を吐く。「……倉橋さんから一言、興味を持っていただければ、正式提案も進めやすくなるとは考えていました」 やっぱり。 少し前にも似たことがあった。 社内で。 あの時は、私から帝人さんへ話を通してほしいと直接頼まれた。 今回は違う。 私が気に入りそうなものを先に見せて、自分から帝人さんへ話したくなるようにする。 やり方が少し巧妙になっただけだ。「それなら、やめた方がいいです」「なぜでしょう」「帝人さんは、私が良いと言ったから採用する人じゃありません」「ですが、倉橋さんの意見は聞かれる」「聞きます」 そこは否定しなかった。 帝人さんは私の言葉を聞く。 私が何かに引っかかれば、その理由を確認する。 でも。「だからこそ、こういう形では使いたくありません」 相馬さんが私を見る。「私が本当に良いと思ったなら、私から帝人さんに話すことはあります。でも、そのために私が良いと思いそうな情報だけ選ばれるのは違います」「意図的に隠したわけでは――」「なら全部ください」 私は穏やかに言った。「帝人さんに提出する予定の資料と同じも
会議削減の見直しが一段落した翌週。 午後の予定を確認していると、受付から内線が入った。『倉橋さんにご面会希望の方がいらっしゃっています』「私にですか?」『はい。東央ソリューションズの営業企画部長、相馬様です』 名前に聞き覚えがあった。 来月、皇グループへ新しい業務支援システムを提案する予定の会社だ。「アポイントは?」『ございません。ただ、十分ほどで結構なので倉橋さんに直接ご相談したいとのことです』「分かりました。応接スペースへお願いします」 帝人さんではなく、私。 少し珍しい。「誰だ」 執務室から声がした。 聞こえていたらしい。「東央ソリューションズの相馬さんです。私に少し相談があるそうです」「俺ではなく?」「はい」「何の相談だ」「まだ聞いてません」 帝人さんは少しだけ考えた。「そうか」 それだけ言って資料へ戻る。「気にならないんですか?」「小春への客だろう」「そうですけど」「なら小春が話を聞けばいい」 あっさりしている。 私が何かあれば自分で対応できると思っているのだろう。 そう考えると、少しだけ嬉しい。 ……最近、こういうことまで意識してしまうのは困るけれど。 私は応接スペースへ向かった。 ◇◇◇◇「突然申し訳ありません」 相馬さんは四十代くらいの、柔らかい印象の男性だった。「いえ。今日はどのようなご相談でしょうか」「来月、御社へご提案する予定の案件について、少し現場寄りの意見をいただければと思いまして」「現場寄り?」「倉橋さんは、数字だけではなく実際に使う人のこともよく見ていらっしゃると伺いました」 どこから聞い
それから数日。 帝人さんの執務室には、見直しを終えた定例会議の一覧が並んでいた。 廃止。 頻度変更。 時間短縮。 参加者削減。 継続。 最初は単純に「半分消す」と言っていた一覧が、ずいぶん細かく分類されている。「結局、半分なくなりました?」「会議数だけなら四割弱だ」「届かなかったんですね」「時間で見ろ」 帝人さんが別の資料をこちらへ寄せる。 年間会議時間。 見直し前と見直し後。「……半分近く減ってる」「ああ。会議そのものを残しても、一時間を三十分にしたものが多いからな」「じゃあ、目標達成?」「まだだ」 帝人さんは次のページを開いた。「会議を減らした結果、情報が落ちたら失敗だ」 そこには、新しく作られた仕組みが並んでいた。 部署横断の短時間共有。 現場から直接上げられる簡易報告。 正式な報告書にするほどではない違和感を残せる共有欄。 重大度を判断できない段階でも、一度記録できる仕組み。「これ、全部作るんですか?」「必要なものだけ試す」「帝人さんにしては慎重ですね」「何だその言い方は」「もっと一気に全部変えるかと思ってました」「一気に変えて何が悪い」「ほら」「ただし、仕組みが増えすぎれば今度は入力作業が無駄になる」 帝人さんは真顔で続ける。「会議を減らして、その代わりに報告フォームを十個増やしました、では意味がない。現場の時間を奪う場所が変わるだけだ」「そこまで考えてるなら安心しました」「俺を何だと思っている」「仕事を減らすために、新しい仕事を増やしそうな人」「そんな非効率なことはしない」「帝人さん自身の仕事は増やしますけどね」







